つきよの放言

頭の中に出てきた言葉を無作為に連ねる.ので,無意味だ.

足纏

神から与えられたとても素晴らしく要らなかったものは

性別。




これはこの先

相互理解が一致することのない

神からの足纏。



それもそう

思考が異なる者同士の相互理解は

きわめて困難。



それが性別であったとき

元凶が異なるのだから

補填が効かない。



よく数々の飛び交いを視る。



必ずそれは主体が己。



そして已まない。





実を食さなければ良かったのに。


労働と痛みが

一番の論点に含まれた。







またある時は


男だから~~

女だから~~


という声は今でも多く見受けられる。



人間としては皆

他人であるのに

他人に自己を決めつけられるなど

到底あってはならないことだ。



たった

二分の一の確率を

当てた。

当てられた。

確率の概念を

超越しているかもしれない。




一番

要らなかったかもしれない。


メリットは大体個人的だろう。



人間社会として

データは取れるにしろ

やはり

与えようとした

神の意向が垣間見えない。



思考を

ただ一つのベクトルに

置き換える能力を

くれてやっても良かったのではないか。





愚物を殺すのは仇となったか

愚考

自らの既知を他人の未知に共有させるな。



これは根拠無しの絶対の次に嫌う。

貴方は私によく聞く。

「これを知っているか」と。


大抵

知らない

興味がない

と答える。



それは拒否ではなく

真実なのだ。


特段メリットがない場合

殆どが知りうる既知を共有したくない。

だから

偶には知っていようが

知らないという。




それはそれとして



興味がないから

知らないと答えたのにも関わらず

自らの情報を

未知なる私に語りかけてくる。


それも

私の思考を全てかき消すかのように。



私は黙っている。

何も言うことができないからだ。

ヒトは会話しないと気が済まない生き物なのか。

それとも

ただの自慢なのか。



どちらにせよ

すごく邪魔でしかない。



これが毎日続くとなると

軽い鬱のような暗黒に呑まれる。



ましてや他人のことなど

本当にどうでもよいのだ。


私に要らない知識を与えないでくれ。



それだから

いつまでも

孤独でない虚空に閉ざされるのだろう。

遡行

全ての真実や虚構を隠すことのできるは

死である


とても無責任だと思う


無責任だからこそ責任を抱えているという

パラドックスも存在するわけで。



パラドックスって人間には感覚的に理解されるものであって

常識的には理解されない。


結果としてそのパラドックスを常識化させたら

死に近づける。



死は「苦」の感情が強い傾向にあり、

そのパラドックスも感覚的でしか捉えられないので

「恐怖」が勝つ



所謂「未知の恐怖」というもので。



学校の「卒業式」という決まったプログラムの中に

「一言残せ」というプログラムが強制的に組み込まれ

邪悪なものだと思ってた。


結果として邪悪

というのも一分で話すことなど

私にはできないからで。



一分で話したのは

「未知に怯えるな。」

とだけで、

本当に言いたかったことは



これは凡てではない。

ある世界線上に存在する私たちは

別の可能性がない

所謂

並行世界を創り上げることができない。

それ故に自己を客観視することがすべてではないが

不可能になる。

これだけで私たちにあるべき機能が排除されたわけだが。

自己を客観視できないと

可能性の矛先が断定できないものになってしまい

いつしか必ず未知の恐怖が訪れる。

苦に圧迫された人の心情は

死の概念を強く創りがちで

逃げ道をただ一通りに断定する。

これには特有の壁の概念が存在するから。

ただし世界線というのは一直線ではない。

可能性を見出せなかった人間は

可能性を創ることもできる。

分岐点を探し、求め、解を出すことは

一般的に可能で常識化される。

なぜ学んでいる。

これを理解せし者は同心円状の思考を張り巡らす。

私にはそれができなかった

できなかったではなく

その機能はとうにこの世の常識に奪われた。

今後の人間の観測を続けるしか能のない。

まったく期待をしていないだけ。


という趣旨で。


結局



解けなく仕組んだのは私だったんですね。



これこそ救済と思いなくたどり着く

哀れな人間。

無である時

最近思考が纏まっていない

気がしてならない


期日に追われたら

動機不十分であることが露呈し、

意味もなく唸る。



別に箱を伸ばしてもよいのだが

変化は全くない



一言及に対処する余裕は

もちろんある。


やはり音は言うことを聞かない



なんて

一方通行な感情を持っているから



力でねじ伏せると




周りは死ぬ。

未だに疑問に思うこの問

「宇宙には壁があると思いますか?」



大半は

「宇宙に壁があったとしてその向こうは何なのか」

「宇宙に終わりがないのが恐ろしい」

など。



私の答えとしては

「宇宙に対して壁の有無を問うのは些か横暴な態度をとっているのではないか」




「壁」の概念は人間が創り出した

壁があると思うのは

一枚板が存在するからで

ある程度の面積、質量を持つと壁と認識される。



闇に潜むナニカを恐れた人間は六枚の板で立方体を生み出し

その空間を「家」と称し、

一枚は天井、一枚は床

そして四枚は壁と称した。



そこで

人間は知りたがる

空間外の状況を


つまり壁を越えた先はどうなっているのかと


それが一つの起点となり

宇宙に壁を見出した



それ以前に

何もなかった地球

つまり原始地球にも壁がなかった。


球体の上を歩いてみよう


終わりがあるまで歩いてみよう


終点はどこであるか


終点とは何か


終わりを見出した人間が創った概念



壁という概念を無くして考えることが不可能

幾千もの星が散在している宇宙は

どこまでの空間が続いているだろうか

これも「壁」を創っている。




宇宙には宇宙であるという存在が確立している。



宇宙が怖いなら壁という概念を消去すれば落ち着くかもしれない。



私はこう考える


宇宙は球体として

その球体上を

我々の存在する地球を含む星々が散在し滑っている。

球体内の空間は

敷き詰められ

我々の存在する地球を含む星々が漂っている。




いつか悩めるか

ヒトの子よ。

重なり

継続は力なりとはよく言ったものだ


悪いわけではない

ただ

現代の人間には「我慢」という概念は

はたして

存在するだろうか。



別にタイムカードを切って残業しろなんて

法外な我慢は

勿論要らない



一時の間

すぐ行動すればよいものの

自己優先で全体を捨てている


ように見えるだけ。





優先事項が増えるほど

優柔不断に陥りやすい



決断を迫られたとき

ほつれがいくつか出てきがち。




そして

いつも自身には

いつかの他人

存在が確定していない他人

悪を視れなかった善だけの他人

これらに頼りがちな



哀れな人間こそ取るは人間

偶有

危機にあり。



さては如何なる期日を作っても

道理にそらず。


アルケーはいつも心の拠り所となっている。



というのも決定論に近づくわけではないが。





現在は迷っている

言えばこれも一つのアルケーが必ず存在し

いつしかかなりの年月が経った後からアルケーは書き換えられる。





勿論

ヒトの手で。




幾つか神の遣いを送ってきたとしても


物理的に対処するより

心情に迷いが生じたときに

必ず途絶える






そういえば

最近のヒトには「絶対」という言葉をよく使っているのを視る。



何も根拠のない

自分自身の想像に偏った根拠なんていらない

そういうヒトの「絶対」なんぞ一般解のない「絶対」


よくもまあそう言い切れるなと、思うのです。

「絶対」そう?

ならば否定して見せます。



数学に関しても「絶対」なんぞ数少ない。


数学の「絶対解」とは



球体の上に数式が空間を侍らせた可能性にすぎない。